2012年6月16日土曜日

札幌より離れて思う

随分とこの個人ブログともご無沙汰していたものだ。以前、ここで僕は「覚醒した」、あるいは「ニュータイプ化し始めている」とか、「The Universeとconnectedし始めている」とか大言壮語したことがある。大方は恥じ入る思いだが、一つだけ確かなことがある。それは、やはり僕は、何か大きなこの世界の動きにwiredしていているということだ。そう、勝手な解釈で恐縮だがしかし、人生にとって一番大切なことは、もちろん個人としての手の届く家族や友達だが、この世界とかかわる一人としての自分を知ることだと、深く自覚するようになったことだと思う。

きょうは私事あって、札幌からJRで2時間半くらい離れた町に来ている。一度来てから、すっかり気に入ってしまった。ここは非常にスモールだからだ。あるお店では、文具とファンシーグッズと書店とDVDのレンタルショップ。それに携帯の契約代理店が同居している。また、あるお店では、野球のグローブなどスポーツ用品と一般に言う靴と、女性向けのバッグを一緒に売っている。地方ではありがちなことかも知れないが、専門店のような垂直統合ではなく、横へ横へとクラウドセンターのように町の生活に根づいている。泊まっている宿の海抜は、5.9mだそうだ。つまり、海が非常に近い。加温しているが、立派な、しかも適度に小さな源泉掛け流しの温泉があり、24時間湯につかることができる。しかも、僕好みの少しだけぬるめである。札幌の老舗店で若い頃、丁稚奉公(意味が分からない方は広辞苑やネットで調べて欲しい)から叩き上げた大将が旨い鮨を握ってくれる。町自慢のななつぼしは、昼はしゃり少し多めに、夜は小ぶりで供され、酒飲みにはうれしい限り。もっとも気に入っているのは、宿の施設としてびっくりするくらいしっかりした図書館があることだ。新刊もきちっと揃え、国内外の文学からサスペンス、ノンフィクション、そしてちゃんと絵本や漫画、図鑑も揃えている。キュレーションが行き届いていることが分かるのだ。しかも午後8時まで開館している。本好きの僕には堪らない。

きょうはニュースの一杯あった一日だった。Facebookで、オウム真理教の一連の事件で特別手配されていた最後の容疑者が、市民監視の末、あろうことかマンガ喫茶で逮捕された。偶然というべきか、敬愛してやまない村上春樹の「アンダーグラウンド」とくだんの図書館で出逢うこととなった。地下鉄サリン事件の被害者に村上自身がおこなったインタビューを淡々と積み上げた700ページを超す創作というより、ノンフィクションである。だが、これは近々にノーベル文学賞受賞が確実視されている作家をもってしても、残念なことに届いていないと2012年の僕は思う。信者たちは洗脳されたのではなく、そちら側の世界を自ら選んだというべきだ。だから、加害者と被害者という単純な構図で理解するべきではなかった。この世では得られない救いを最終解脱者を名乗るたった一人の男に、徹底的に支配された。「ポアしろ」とはこんな傲慢な言葉がこの世界にあるのかと思う。人を殺めることで、その人のステージを上げる。つまり善行なのだ、と信じ込ませた。知性と人格を支配された、あるいは委ねてしまった。狡猾かつ強権的な集団心理による支配。互いに密告することも奨励されていただろう。つまりダブルバインド(二重拘束)だったのだ。もっと正確に言えば、それほど法治国家の想像力を超える破壊的カルトだったということだし、今も破防法を発動できないまま(戦前のトラウマから当時ですらできなかったのだから、今となっては不可能だろう)、その末裔の存在を容認していることになっていたりする。今もなお、若い信者が入信しているとニュースは伝えていた。1995年から社会は何も学んでいないことになるのだろうか。実は70億人を抹殺出来るサリンを製造しようとしていた新興宗教なのに。司法の総力を挙げても今なお、「オウム真理教」とは一体何だったのか、いっこうに総括されていないことを思わざるをえない。僕たちの世代は、ニューアカデミズムという時代を経験している。浅田彰氏や中沢新一氏は、まさに時代の寵児としてもてはやされた。だが、彼らの語る真理へ通じる思索は何の役にも立たなかったし、中沢氏に至っては宗教学の立場から、オウムを擁護する発言をしていた時期があり、多くの非難の的になった。中沢氏は決して間違っていたのではなく、ただ余りにも宗教を無垢なものとしてし理解していただけだったし、カルトは宗教、特に新興宗教と結びつきやすいことを宗教学者が知らないのは、そもそも馬鹿げている。その後、彼は以前よりも増してチベット密教に傾倒して、当事者であることから逃げた。当代きっての知性がだ。救い主の名の下にどのような歴史(正しくは、生き残った者のという注釈がつくが)が作られてきたのか、まさかご存知なかったはずはない。実社会に何の寄与もしない(少なくとも一世代くらいは)思索が不必要だとは思わない。アインシュタインが解明した宇宙の仕組みは、人類に多くのものを寄与したし、ニュートンの林檎まで引き合いに出すまでもないだろう。だが、現実の歪みや非連続な人間社会の至る所にある複雑系を解き明かしてこその思索ではないだろうか。今、多くの事象に鋭い思索を向ける宇野常寛氏や、古市憲寿氏と比べれば、ニューアカデミズムはあだ花だったと言わざるを得ない。

もう一つは、改正臓器移植法で法整備された6歳未満の脳死児童から、両親の同意を得て、日本で初めての臓器移植が行われたことだ。特に心臓は大阪大学付属病院で10歳未満の拡張性心筋症の女児に移植され、極めて術後経過が良いと報道されている。両親のコメントは、この重く閉塞した時代にあってもなお、己が引き裂かれるような悲しみと、体温が残り、動いている心臓を取り出す。その想像を絶する苦悩を超えて、他者の痛みを救おうする、人のみがなしえる行為に満ちていた。「希望」と、両親は報道向けのコメントで書いていた。

僕は今は運転免許証の裏に書くことで意思表明できるドナーカードに全てイエスと書いている。それはドナーカードが薄い紙だった頃からそうだった。正確な血液情報と一緒に、いつもバッグに入れていた。リトルピープルであることを理解した今の僕にできるわずかな想像力だし、この世界の一部としてかかわりたいと願う一個人の意思表明でもある。

改めて、人の理解は一個体としてということとは別に、集団として人はどのような行動をとる生き物なのかをもっと深く思索、研究する優れた頭脳の持ち主が現れることを切に願った一日となった。人の世界は実はとてもスモールだったりする。だから、恐怖や怒り、特に集団心理にかられ暴走することがある。ナチス支配やさまざまなカルトはその代表であるり、ルワンダで起こった悲劇や、日本で言えば連合赤軍の末路がそれを示している。東大理学部で素粒子論を研究し博士課程まで進んだ人が、どうして地下鉄でサリンの入ったビニル袋に傘を突き刺す実行犯となれるのか。正気と狂気は決して、彼岸と此岸に分かれてはいない。考えてみれば、日々働く職場や会社というのは、ひとつの集団心理だし、それが国家となれば、一度弾かれた引き金はもとには戻らない。なぜ人類から憎しみがなくならないのか。破壊することをやめないのか。故開高健がかつて喝破したように、「私たちは大脳が後退したただの二足歩行の生き物」でしかないのだろうか。人の叡智や崇高な知性は本当にそれを乗り越えられるのだろうか。

それを知ることが、私たちの、そして私たちに続く世代や時代にとっての、希望につながるのかも知れない。

2012年1月25日水曜日

テレビジョンの未来像仮説β


Team,

 21世紀ももはや2012年となった。最近北米ではITに加えてCE(家電、Consumer Electronics)と呼ばれる世界が熱い。放送と通信の世界は、ITCEの世界に大きく呑み込まれようとしている。家庭の中はInternet of Thingsとなり、地域はスマートグリッドに。エネルギー革命も進み、ITからETEnergy Technology)へと時代は向かう。あらゆる意味でイノベーションとストラテジーの時代の到来である。
日本では東日本大震災があまりにも大きな事象だったので、地デジ後の話はすっかり聞かれなくなった。だが、世界的には”Smart TV”とデファクトで呼ばれるようになったインターネットテレビジョンへの移行が進む。いわゆる地デジとは、テレビの買い替え需要を先食いしてしまったとも言えるし、どう考えても一家にテレビは1台で十分ではないか。複雑な利便性が好まれとは個人的には思わない(逆にセルレグザのように、勝手に録画してくれるテレビサーバのような方向性はありがたい)。テレビジョンの未来像の仮説を立てる上で、ニューヨークに住む知人から聞いた話が非常に印象的だったので、それを基にモデル化してみたい。
さて、アメリカでは60インチ等の大画面テレビ(特に日本製)が好調な売れ行きだそうだ。これは、実はアメリカの一般家庭像の反映と言える。アメリカでは、家族が集まるのはリビングであり(Huluでアメリカのテレビドラマを見ていると、意外にリビングとベッドルームのシーンが多い。特に日本よりこじんまりしていると思えるリビングの意味は大事なのだろう)、そこにはやはり大画面のテレビが必要なのだ。果たして日本はどうか?平均的な一般家庭のリビングよりは広いと思われる我が家でも49インチ(購買当時の値段としては買える上限だったこともあるが)なので、現在1インチ=1000円という劇的安価になっているとしても、60インチがリビングの大きさに対して適応かどうかということもあるだろう。もっと大切なのは、家族が集まる場としてのリビングはちゃんと機能しているだろうかということである。
アメリカの家庭の話には続きがある。60インチの大画面は、いわゆるインターネットTVである。北米では日本のように地上波で受信して見ている家庭は極めて稀で、衛星かケーブルが一般的である。加えてインターネット経由で番組を見ているのは普通になっている。というか、ネットフリックス(インターネット経由の番組配信会社)の契約者が、昨年とうとうケーブルテレビ最大手、コムキャストのそれを抜いてしまった。ここ数年流行言葉となった「コードカッティング(ケーブルや衛星の契約を止めて、ネットフリックスなどに乗り換えること)」である。
60インチのテレビジョンが鎮座している、とあるアメリカ人家族のリビングを描写してみよう。大画面テレビジョン=インターネットTVには、先ほど説明したネットフリックスが映っているのだが、家族は誰も真剣にそれを見てはいない。みんなそれぞれのタブレット(例えばiPad)をメーンスクリーンにしている(当然家庭内はWiFiで無線LAN環境になっている)。子供達はアングリーバードで遊んでいる。お父さんは人気ドラマ「グレイズ・アナトミー」を見ている(外科手術シーンの多いこのドラマ、お母さん達は苦手らしい)。そしてお母さんはクックパッドや最新ファッションのショッピングサイトを見ている。つまり、リビングのテレビはもはやBGMであり、リビングに家族が集まるためのシンボルなのだ。これを称して、Bi Screen、バイスクリーンと呼ぶ。テレビジョンとタブレット。画面の大きさや高精彩度では圧倒的にテレビジョンなのだが(今後iPad3にレティナディスプレーが搭載されるようにタブレットの高精彩化が進む)、実はメーンに使われているのはタブレットになる。リビングから離脱して、HuluYouTubeを見たり、Skypeで友達とおしゃべりする。またはアプリで何か用事や娯楽を楽しむこともあるだろう。ソフトキーボードでメールを出すことも宅内が無線LAN化されていればとても簡単なことだ。場合によっては、パーソナルコンピューター(だからウルトラブックのように薄型軽量であることが必要)であったり、スマートフォンであったりするだろう。テレビジョン、パーソナルコンピューター、タブレット、スマートフォンを合わせて4 Screenと呼ぶこともある。だが、4つものデバイスが個人に紐付いて、連携する必要が本当にあるだろうか(だから電子書籍単体リーダーは無理があると個人的に思うのだ)。また、コンテンツとは、幾つものデバイスをまたがらなければならないほど、それほど需要があるのだろうか?特に「家族」にとって。

先ほどのアメリカ人家庭は、決してコミュニケーションレスではない。アングリーバードを楽しんでいる子供達はお互いにクリアした面の話で盛り上がっているし、グレイズ・アナトミーを見ながらお父さんは子供達に話しかけ、ネットウィンドウショッピングをしているお母さんとも会話が絶えない。そして、あるサイトを見ていたお母さんが家族にこう言うのだ。「ねぇ、今オーダーするとピザが半額なんだけれど、お昼にしない?」

家族の絆がちゃんとあってのバイスクリーンなのだ。
コンテンツとしてのテレビジョンは、家族に見てもらって、楽しんでもらいたい「娯楽」だった。2012年。震災後社会でもそれは大きくは変わらないだろう、と考えるのは合理性のあることだろうか。しかし、テクノロジー・イノベーションはコンテンツを見る環境をどんどんテレビジョンから引き剥がして行く。そして家族の在り方も変わる。特にインターネットをパーソナルコンピューターではなくモバイルで定義する若い世代の変化は著しい。古市憲寿氏の「絶望の国の幸福な若者たち」に次のような記述がある。「たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムをそろえ、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー。(中略)家ではYouTubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり。家具はニトリとIKEA。夜は友達の家に集まって鍋。お金をあんまりかけなくても、そこそこ楽しい日常を送ることができる」と。超高齢化、少子化、晩婚化、さらには生涯未婚率の増加。生産労働人口の減少は歯止めはかからず、当然のことながら総世帯所得はゆっくりとかもしれないが右肩下がりに縮小していく。そしていつ国債がデフォルトになるか分からない日本。この国家縮小期のデフレ時代を小さく(それは幸福ではないということではない)生きる彼らに、60インチのテレビジョンはもとより必要ではなく、そもそもテレビジョンは生活家電ですらなくなるのかもしれない。新聞はすでにリテラシーの高い人々のメディアとなっているし、主に女性雑誌を支えて来たブランド広告ももはや必要はなくなるかも知れない。

日本の地デジはワンセグ方式を採用したため、テレビジョンはモバイルに置き換えられる(既にワンセグでテレビは十分という世代が登場している)。地デジチューナーとディスプレーがあれば単機能のテレビジョンはもういらない。今後更なる進化が期待されるモバイルなどのインターネット世界。LTEへ高速化する通信網、そしてワイヤレス。「リビングの王様」だったテレビジョンは、クラウドに置かれたコンテンツを見る”ビューワー”に世代交代していくのかも知れない。インターネットTVへの進化は時代の奔流だ。基本的には広告を売っている媒体(メディア)である民放、特にローカルはどのように生存戦略(成長戦略ではない)をとるべきなのだろうか。Rough Consensus is running code. そう、熟議している時間はないし、AppleGoogleではないが「(これまでの)世界を変える」ことこそ必要だろう。なぜなら、未来という言葉の持つ時間軸の尺度は益々短くなり(ここでいう未来とはマーケットと同義である。長期的なトレンドが510年とするならば、変化に布石を打つためには個人的には12年。長くて3年だろう。ビジネスのスピードは非常に速い)、これまでとはこれからの未来はあきらかに"非連続"からだ。






改めてTeamとは, トムラウシにて



Team,

安息日から道東の秘境、トムラウシに”湯治”に来ている。
国民宿舎のリーズナブルな宿であるが、二十四時間温泉に入れるのが素晴らしい。
さらに、素晴らしいのは深い雪である。JR新得駅までコースターで迎えに来てくれたのだが、走り出してどんどん山道に分け入って行くと、当たり前のことだが除雪が十分ではなく、雪道の幅員も狭くなっていて、「ちょっと危なくないよね」と心配したほどだった。だが、75分で無事宿に到着した。

夏と違ってウォーキングする場所があるわけではない。宿からあまり離れると危険な感じがあるのだが、小一時間ほど雪道を踏みしめて散歩。偶然にも、エゾクロテンの目撃に成功。後は、温まり具合がちょうどいいナトリウム泉に一日何度も浸かっては、いわゆる体温療法(体温を上げると免疫力が高まる)三昧。さらには、持ち込んだ本を読むは、読むは。特に、買ったまま積んどく状態になっていた、宇野常寛の「リトル・ピープルの時代」が極めて面白い。さすが、現代随一の批評家と言われるだけのことはある。

昨夜、というのは火曜日だが、復活したNHK「ザ・プロフェッショナル」を久しぶりに見た。Googleのエンジニアのお話なのだが、非常に面白かった。Googleの企業文化や風土のユニークネスを垣間みる事が出来た。さすが世界最先端を行くIT企業だと思った。自分の会社と比べるのも恥ずかしい。一番驚いたのは、プロジェクトは基本参加メンバー全員合意が必要、というのは意外だった。Googleだったら真逆だろうと思ったからだ。誰もが一目置かれる天才エンジニアだろうから、その中でも一番優れた想像力を持ったリーダーに従った方がより効率的だし、とにかくITの世界で一番重要なスピード力がある。そう思ったのだ。だが、真実は逆だった。一見遠回りだが、プロジェクトに参加している全員が議論を尽くし、納得することで、新しい発想やチームとしての仕事力のパワーが高まると考えるそうだ。

「ザ・プロフェッショナル」は、そのリーダーとなっているエンジニアは「世界を変えるリスクをとれ」、と言っていた。それは素晴らしい言葉ではあるが、本当に素晴らしい意のは、その世界を変えることは、全く新しいことは、たった一人の天才ではなく、優れたチーム力から生まれるということだと思う。

Team,

チーム。なんと素晴らしい言葉ではないだろうか。

2012年1月14日土曜日

エンディング・ノートを観る

まだ今年は始まったばかりですが、今年のマイベスト1は早くもこの映画になりました。

「エンディング・ノート」。胃がんのため69歳の若さで亡くなった砂田知昭さんの、文字通り最期の日々を綴るドキュメンタリー映画です。監督は本作がデビュー作となる砂田麻美さん。
そう、知昭さんの次女が撮影、編集、監督を務めているのです。製作は、砂田麻美監督が、ずっと監督助手として師事している是枝裕和さん。

「死ぬまでにしたい大切なこと〜もし余命3ヶ月と言われたら〜」という和訳の本がありますが、友昭さんは末期がんの宣告を受けた際、残された日々を前向きに生きるとともに、残された家族が困らないよう10項目のTO DOリストを作りました。”法的拘束力を持たない家族への覚え書き”のようなものとあります。

映画の内容にかかわるので多くを書くことはできませんが、3つの点で極めて優れた作品になっていると思います。

1.キャメラが深い。砂田麻美監督は普段から家族や友人だちをビデオ撮影しているそうですが、元気な頃の映像との対比と、ここまでキャメラを向けるかという現場まで回していて、取材がとにかく深いのです。何気ない映像がここまで人の心を動かすのかと思います。ですが、葬儀撮影だけは別の方が撮影していて、そんなところにほろっとさせられました。あと、奥様との二人だけ(のはずの)シーン。泣けました。男だったら無人にせよ、有人にせよ、多分キャメラは回せなかったのではないかと思ったりもしました。

2.主人公である砂田知昭さんの人間味溢れるヒューマニティ。最期までジョークを言っているような方です。知昭さんを取り巻く奥様を始めとした家族像もとても丁寧に描かれています。ある死の話に終わらず、誰もが経験する家族の物語に昇華させたところが凄い。知昭さんには尊敬の念すら覚えます。感動する前にこう思いました。自分の最期もこうありたい、と。

3.そうくるかという絶妙の構成力。これは普段キャメラを回しているからこそ磨かれる観察眼だと思います。最後迄とくにかく明るい。でも、どしーんと残していく。

ドキュメンタリーではありますが、映画として作品性をちゃんと持っています。
こういう作り方をする人を初めて見ました。自分の日常の中から、普遍に到達する。
できることではありませんよ。ね。

僕はあと1、2回観たいと思います。
皆さんも、ぜひ。

2012 International CES 閉幕

ちょっと事情があって、ブログを書くのは久しぶり。


1/10-13までアメリカ・ラスベガスで開催されていた世界最大の家電見本市、2012 International CES(コンスーマ・エレクトロニクス・ショー)が閉幕した。本当は、CESはもちろん、その後、シリコンバレーに2週間ほど滞在して取材する予定でした。だから、行けなくてとても残念。でも、Facebookの知人の書き込みや、Linkedinでの知人(特にWeb 2.0 Expoのディスカッショングループ)でのやりとり。それと、モルガンスタンレーのITアナリストのメールマガジン、TechCrunch、さらにはCNETや日本経済新聞電子版で「大見出し」くらいは感じることができました。ので、テレビに関わる部分だけを「集約」しておきます。

今年は過去最大だった昨年の14万人を上回る15万人が訪れました。マイクロソフトが参加する最後のCES。今年のテーマだったワイヤレスやNFCの新しい技術が展示されました。テレビでは、日の丸勢はサムソン、LGに完敗。お家芸だった有機ELは今や韓国製品の代名詞。サムソンが言い出した「スマートTV」が、デファクトになり、それを前提に他デバイスやコンテンツの連携を入れこんでいます。ですが、アップルのような垂直統合ですが、デバイスからコンテンツ、プラットフォームまでを一気通貫するエコシステムは作れていないので、やはり最後はコンテンツの勝負になるのではないでしょうか。

あと、詳細不明ですが、日本メーカーテレビのリモコンに「Netflix」のボタンがついていて、みんな驚いたそうです。昨年暮れに、Netflixは2012.3末に新たな海外拠点に作ると発表しており(現在はアメリカ、カナダ、中南米43カ国)、アジア(日本?韓国?)、ヨーロッパ?と観測されていました。昨年9月に上陸したHuluに次いでのサービスインとなれば、リモコン戦略が国内向けだとすれば、深く静かに潜行してたことになります。アメリカ国内向けとしても、随分なファインダビリティの提供ですが。

2012 International CES 終わる。テレビを中心に簡単なまとめ】
 名前の通り家電(Consumer Electronics=CE)メーカー、マニファクチャラーとしてのグローバルでの勢いが明確に。次世代テレビパネルでは、サムソン、LGの一人勝ち。「サムソンは第二のアップルか?」と持ち上げる記事も。他デバイスとの連携がウリだが、リモコンのUIが良くない。ソニー、パナが健闘するも「従来」技術の延長展示の感はいがめず。欧米メディアの評価は厳しかった。特に日本が先行した有機EL英語ではorganic light emitting display)では、完全にサムソン、LGにひっくり返された。日の丸勢はソニーのクリスタルLEDや、シャープのICC-4K LEDや、CEATECでお披露目したNHK放送技研との共同研究機8K LCDと高精彩度にシフトした感があった。サムソンが名付け親である「スマートTV」は、2012 CESでは「共通語」となっていたが、アップルと対照的だったのは、サムソンもLGCEであり、コンテンツを含めた「垂直統合」モデルではないということだ。もちろん、独自のアプリマーケは用意されてはいるが、アメリカで先行しているスマートTV向けへの広告配信モデルは視野に入っていない。ソニー、東芝、シャープは、「Netflix」のボタンがついた製品を展示していて注目を集めた。ちなみにNetflix2012.3までに新たな海外拠点への進出を既に昨年発表している。 
 アップルのiTV(パネルはシャープ、だがiPad3の採用は見送り)は今年の前半にリリース。日本では、コンテンツ集めに苦労との報道も。iPad2より更に薄く、レティナディスプレー搭載のiPad3は、今年の第一四半期にリリース。新世代iPhone5は、今年後半にリリース。筐体は薄くなり、LTE対応になるとモルガンスタンレーのアナリスト。NFC搭載については未定。
 
 今後は、文字通りコンテンツを含めた、「エコシステム」をどうマルチデバイスで築いていくのか?それともサムソンのように単なる巨大なCEマニファクチャラーとして、M2M2H(マシーン・ツゥー・マシーン・ツゥー・ヒューマン」(主としてヘルスケアや車載デバイスのと連携)も含めたーホームネットワークへ向かうのか。いずれにしても、もはやテレビジョンという物理デバイスは過去の物になろうとしており、コンテンツのエコシステムのハブとしてのディスプレーなのか、高速WiFi化した宅内の白物家電(the goods white)Internet of thingsでつなぐプラットフォームなのか。CESを伝える記事やアナリストのレポートの中に「televisionの文字はもはやない。 
 
 最後の参加になるMicrosoftスティーブ・パルマーCEOのキーノート。2012年末にリリースする新しいOSWindows8これまで蜜月だったインテルのx86アーキテクチャーから、クアルコムのARM系アーキテクチャーへの「転向」が注目だったが、深くには触れず。しかし、PCの逆襲ははっきりと宣言。(マイクロソフトはCESへの参加は今年が最後で、今後は独自にカンファレンスやイベントを行う予定)。OSで異なるデバイスを統一し、さらにUIも「メトロ」に統一。NFCも採用と話題も多い。インテルが提唱する「薄型・軽量」を謳うUrtrabookも注目を集めたが、正直「重い」。MacBookAirに対抗するためだが、確かに薄いが、重い。


んなところをメモランダムにしておきますね。