2013年2月24日日曜日

札幌生まれのワイン

Team,

 土曜日に出かける目的は大抵決まっている。音楽。芝居。買い物はめったにしなくなった。きっと、物欲が年齢とともに衰えてきているのかもしれない。しかし、ライブという再現性のない場にいることは極めて僕の心をとらえて離さない。

 五嶋龍は神のようだったし、沓野勢津子のマリンバは遠い記憶のような音色だった。「11月のある日」というキューバ人、レオ・ブローウェル作曲のギターの名曲との出逢いもやはりライブならではのものだった。

 ワインを楽しむ会、などというものには縁がないと思っていた。飲むのは一人でと決めている僕にとって誰かと幸せな時間をシェアするのは性分に合わないとずっと思っていた。だけれども、ある偶然の出会いで道産ワインを応援する会に出向くことになった。普段は家具等のセレクトショップになっている洒脱なスペースが会場になっていることも何故か心惹かれるものがあった。

 札幌市内にワイナリーがあるなんて初めて知った。北海道と言えば池田町。あるいは函館か。緯度的にもドイツ系葡萄が適していて、実はヴィンヤードが思いのほか多いことも知ってはいたけれど、文字通り灯台下暗しだった。



 「さっぽろ藤野ワイナリー」。生産者の方に直接話を聞けたこともとても楽しかったし、とても誠実に作られているのは一口味わってみるとすぐに分かった。赤がメインだそうだが、白も泡も作っているという。しかも、三人兄弟でヴィンヤードで葡萄を育て、自家醸造までやっていらっしゃると聞いて頭が下がる思いだった。写真にはないが、泡は不意打ちされたように美味しかった。保存のための亜硝酸塩を使っていない、あるいはよく言う「おまじない程度」にしか使っていないので取り扱いに注意が必要だ。もともと小ロットなので、なかなか飲む機会が少ないこともハンディだろう。でも、無濾過でかすかににごりのある果実香溢れた軽い味わいは、主催者がマリアージュにと用意したサバとタラの薫製によく合っていた。

 結婚式のパーティかと見まごうばかりにドレスアップしてピンヒール姿のレディも多かったので、僕は少し居心地が悪かったけれど、その分生産者の方々と大人同士の会話ができたのは、土曜日の夜という幸せな時間に鮮やかな彩りを添えてくれた。

 「いつかピノ・ノワールをやりたい」生産者は夢を語った。やっぱり、人生、ライブがいいに決まっている。


2013年2月23日土曜日

最近、思うこと。

Team,

 昨年のバースデーでめでたく55才となり、いわゆる「定年」まで5年になった。法律の改正で65才までは働けるし、働かないと食うに困るが、60才で会社はいずれにしても退職することになる。退職金は現金支給なので、ささやかだけれでど23才でこのテレビの世界に入って32年間、お疲れさま!と祝えるくらいのお金は頂けるだろう。その後の5年間は、いわばおまけのようなもので、時給制の会社もあるくらいだからとてもモチベーションが働くとは思えないし、そういう自分にもなりたくはない。もう企業人として十分以上のことはしたはずなのだから。

 そう思っていたけれど、それがなんだ、と思うようになった。多分、二つ理由がある。一つは2011年の東日本大震災。普通に暮らすこと、幸せの尊い意味を知った。もう一つは、やはり55才になって、事実上の現役が5年しかないのなら、せめて30年以上メディア人としてこの世界にかかわってきたナレッジやスキルやインサイトを社会に役立てたいと、しみじみ思うようになったからだ。

 自慢にはならないが、家庭を顧みない仕事依存症の人間だった。テレビの世界には、そうしたスリリングな自己実現の宇宙が広がっていて、幸いにも僕はその神様の後ろ髪の一本くらいはつかんだと思っていた。でも、それは誰も幸せにはしなかったように思う。確かに、自己実現は出来たかもしれない。高いサラリーをもらって家族にひもじい思いは一度もさせなかったし、DVも起こさなかったし、ギャンブルやアルコールの依存症にもならなかった。でも、仕事依存症だった。僕は、僕の家族は人並みだと思うが、「とっても幸せだよね」とはきっと言えないと思う。

 どうにかして、社会とのかかわりを持ちたいとここ数年考えていた。でも、実際ボランティアとはやってみると距離感がつかめなかった。何かの役に立っているのだろうかと。でも、大切なのはそう実感できるかどうかじゃなかった。誰かを想い、それを形にすること。それが、この世界とかかわり、なにかより大きなものの一部になることだと気がついた。僕はそうとう鈍感な人間だったようだ。

 まだうぶ声を上げたばかりだけれど、若い人たちと「しゃべりば場」というか、ワールドカフェのような、あるいはミニTEDのようなセッションを始めた。札幌にもTEDサロンがあるのは知っていたが、このまえウェブサイトを見たらサポートスタッフ(当日のボランティアではない)を募集していたのでエントリーした。3月中旬にオリエンテーションがあるらしい。英語でスピーチなどさせられなければいいのだけどね(笑)。
 あと一つ。これは前から誘われていたし、ずっと長く作り手にいたテレビマンとして入りたかった「放送人の会」。普段はライバルだけれど、札幌テレビにいらっしゃる大先輩に推薦をお願いして入会を申し込んだ。英語で表記すると、Television Creators Society of Japan。現場の制作者の集まり、ということか。現在、会員は200名ということだが、まあ、神様とか、巨匠とか、大先達とか、キラ星のような大先輩がひしめいている。55才の僕など、多分使いっ走りだろう。でも、そこから始めよう。

 1981年。憧れていたテレビの世界に入った。でも、一年間はなにもさせてもらえなかった。「見ていろ」だだそれだけ言われただけで、朝一番に来て、デスクや先輩たちの机を黙々と雑巾がけする毎日だった。昼休みは1時間ちゃんとあるはずなのに15分で食って戻ってこい、と言われ外食しにいく同期たちが羨ましくてしかたなかった。でも、そうやってただ見ていたから見えるものがあったし、どんなに追い込みになったり、大事件や大事故でパニクった状況になっても人より平静でいられるようになっていった。そんなある日、虫の居所が悪いとすぐ僕の顔や頭をスリッパで叩いていたボスがこういった。

「きょうからお前が(ディレクター)卓につけ。卓につけばお前が指揮官だ。全部責任をとるんだ」

 使いっ走りで終わることもあるだろう。でも、草鞋取りから天下人になってご仁もいるではないか。

 もう一度、始めたい。いつも初心で。