2012年1月25日水曜日

テレビジョンの未来像仮説β


Team,

 21世紀ももはや2012年となった。最近北米ではITに加えてCE(家電、Consumer Electronics)と呼ばれる世界が熱い。放送と通信の世界は、ITCEの世界に大きく呑み込まれようとしている。家庭の中はInternet of Thingsとなり、地域はスマートグリッドに。エネルギー革命も進み、ITからETEnergy Technology)へと時代は向かう。あらゆる意味でイノベーションとストラテジーの時代の到来である。
日本では東日本大震災があまりにも大きな事象だったので、地デジ後の話はすっかり聞かれなくなった。だが、世界的には”Smart TV”とデファクトで呼ばれるようになったインターネットテレビジョンへの移行が進む。いわゆる地デジとは、テレビの買い替え需要を先食いしてしまったとも言えるし、どう考えても一家にテレビは1台で十分ではないか。複雑な利便性が好まれとは個人的には思わない(逆にセルレグザのように、勝手に録画してくれるテレビサーバのような方向性はありがたい)。テレビジョンの未来像の仮説を立てる上で、ニューヨークに住む知人から聞いた話が非常に印象的だったので、それを基にモデル化してみたい。
さて、アメリカでは60インチ等の大画面テレビ(特に日本製)が好調な売れ行きだそうだ。これは、実はアメリカの一般家庭像の反映と言える。アメリカでは、家族が集まるのはリビングであり(Huluでアメリカのテレビドラマを見ていると、意外にリビングとベッドルームのシーンが多い。特に日本よりこじんまりしていると思えるリビングの意味は大事なのだろう)、そこにはやはり大画面のテレビが必要なのだ。果たして日本はどうか?平均的な一般家庭のリビングよりは広いと思われる我が家でも49インチ(購買当時の値段としては買える上限だったこともあるが)なので、現在1インチ=1000円という劇的安価になっているとしても、60インチがリビングの大きさに対して適応かどうかということもあるだろう。もっと大切なのは、家族が集まる場としてのリビングはちゃんと機能しているだろうかということである。
アメリカの家庭の話には続きがある。60インチの大画面は、いわゆるインターネットTVである。北米では日本のように地上波で受信して見ている家庭は極めて稀で、衛星かケーブルが一般的である。加えてインターネット経由で番組を見ているのは普通になっている。というか、ネットフリックス(インターネット経由の番組配信会社)の契約者が、昨年とうとうケーブルテレビ最大手、コムキャストのそれを抜いてしまった。ここ数年流行言葉となった「コードカッティング(ケーブルや衛星の契約を止めて、ネットフリックスなどに乗り換えること)」である。
60インチのテレビジョンが鎮座している、とあるアメリカ人家族のリビングを描写してみよう。大画面テレビジョン=インターネットTVには、先ほど説明したネットフリックスが映っているのだが、家族は誰も真剣にそれを見てはいない。みんなそれぞれのタブレット(例えばiPad)をメーンスクリーンにしている(当然家庭内はWiFiで無線LAN環境になっている)。子供達はアングリーバードで遊んでいる。お父さんは人気ドラマ「グレイズ・アナトミー」を見ている(外科手術シーンの多いこのドラマ、お母さん達は苦手らしい)。そしてお母さんはクックパッドや最新ファッションのショッピングサイトを見ている。つまり、リビングのテレビはもはやBGMであり、リビングに家族が集まるためのシンボルなのだ。これを称して、Bi Screen、バイスクリーンと呼ぶ。テレビジョンとタブレット。画面の大きさや高精彩度では圧倒的にテレビジョンなのだが(今後iPad3にレティナディスプレーが搭載されるようにタブレットの高精彩化が進む)、実はメーンに使われているのはタブレットになる。リビングから離脱して、HuluYouTubeを見たり、Skypeで友達とおしゃべりする。またはアプリで何か用事や娯楽を楽しむこともあるだろう。ソフトキーボードでメールを出すことも宅内が無線LAN化されていればとても簡単なことだ。場合によっては、パーソナルコンピューター(だからウルトラブックのように薄型軽量であることが必要)であったり、スマートフォンであったりするだろう。テレビジョン、パーソナルコンピューター、タブレット、スマートフォンを合わせて4 Screenと呼ぶこともある。だが、4つものデバイスが個人に紐付いて、連携する必要が本当にあるだろうか(だから電子書籍単体リーダーは無理があると個人的に思うのだ)。また、コンテンツとは、幾つものデバイスをまたがらなければならないほど、それほど需要があるのだろうか?特に「家族」にとって。

先ほどのアメリカ人家庭は、決してコミュニケーションレスではない。アングリーバードを楽しんでいる子供達はお互いにクリアした面の話で盛り上がっているし、グレイズ・アナトミーを見ながらお父さんは子供達に話しかけ、ネットウィンドウショッピングをしているお母さんとも会話が絶えない。そして、あるサイトを見ていたお母さんが家族にこう言うのだ。「ねぇ、今オーダーするとピザが半額なんだけれど、お昼にしない?」

家族の絆がちゃんとあってのバイスクリーンなのだ。
コンテンツとしてのテレビジョンは、家族に見てもらって、楽しんでもらいたい「娯楽」だった。2012年。震災後社会でもそれは大きくは変わらないだろう、と考えるのは合理性のあることだろうか。しかし、テクノロジー・イノベーションはコンテンツを見る環境をどんどんテレビジョンから引き剥がして行く。そして家族の在り方も変わる。特にインターネットをパーソナルコンピューターではなくモバイルで定義する若い世代の変化は著しい。古市憲寿氏の「絶望の国の幸福な若者たち」に次のような記述がある。「たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムをそろえ、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー。(中略)家ではYouTubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり。家具はニトリとIKEA。夜は友達の家に集まって鍋。お金をあんまりかけなくても、そこそこ楽しい日常を送ることができる」と。超高齢化、少子化、晩婚化、さらには生涯未婚率の増加。生産労働人口の減少は歯止めはかからず、当然のことながら総世帯所得はゆっくりとかもしれないが右肩下がりに縮小していく。そしていつ国債がデフォルトになるか分からない日本。この国家縮小期のデフレ時代を小さく(それは幸福ではないということではない)生きる彼らに、60インチのテレビジョンはもとより必要ではなく、そもそもテレビジョンは生活家電ですらなくなるのかもしれない。新聞はすでにリテラシーの高い人々のメディアとなっているし、主に女性雑誌を支えて来たブランド広告ももはや必要はなくなるかも知れない。

日本の地デジはワンセグ方式を採用したため、テレビジョンはモバイルに置き換えられる(既にワンセグでテレビは十分という世代が登場している)。地デジチューナーとディスプレーがあれば単機能のテレビジョンはもういらない。今後更なる進化が期待されるモバイルなどのインターネット世界。LTEへ高速化する通信網、そしてワイヤレス。「リビングの王様」だったテレビジョンは、クラウドに置かれたコンテンツを見る”ビューワー”に世代交代していくのかも知れない。インターネットTVへの進化は時代の奔流だ。基本的には広告を売っている媒体(メディア)である民放、特にローカルはどのように生存戦略(成長戦略ではない)をとるべきなのだろうか。Rough Consensus is running code. そう、熟議している時間はないし、AppleGoogleではないが「(これまでの)世界を変える」ことこそ必要だろう。なぜなら、未来という言葉の持つ時間軸の尺度は益々短くなり(ここでいう未来とはマーケットと同義である。長期的なトレンドが510年とするならば、変化に布石を打つためには個人的には12年。長くて3年だろう。ビジネスのスピードは非常に速い)、これまでとはこれからの未来はあきらかに"非連続"からだ。






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