FURANOに滞在していた時の話だ。朝食は光の入る美しい場所だった。自然光を採光しているのは素敵だと思った。残念ながら曇りだったが、それも一興。パティオに植えられるいるちょっと名前は分からなかったが、小ぶりな樹木は美しく紅葉していた。
朝食はシンプルな和食又は洋食のセットから選ぶようになっている。大抵、僕は和食を選ぶ。多分、年齢的なものだろうと思う。朝からハムや目玉焼きはちょっと…。という年齢になってしまったのだ。炊きたての御飯があり(最近、北海道米の旨味向上には敬意を払う。函館産のふっくりんこはとても美味しい。北海道米のエースではないだろうか?)、温かいお味噌汁がある。もうそれだけで、心和んでしまうのだ。
本題からそれてしまった。よくあることだが、飲み物はご自由にというビバレッジフリーが結構流行っている。このFURANOのホテルもそうだった。富良野の水はとても美味しい。まずは「水」。それと「白湯」を頂いた。あとは「アップルジュース」。そして地元産の新鮮な「牛乳」。以上、僕のチョイスは4つだった。コーヒーはないの?と訊いたあなた。実に良い質問だ。最近、とんとコーヒーを飲まなくなった。美味しいと感じなくなったのだ。これは正直に告白する。もちろん、レストランで食後のお飲物は?と訊かれたら、それはエスプレッソなどと頼みますよ。でも、フリーで飲めるコーヒーはまず美味しくないのでパス。スターバックスやタリーズでも、僕はフレッシュジュースかスムージーを注文する。会社のオフィスにあるコーヒー、なんて論外。でも毎月のお茶代は3,000円支払っている。
また本題が逸れた。そう「新鮮な水」「白湯」「アップルジュース」「フレッシュミルク」が僕の座っているテーブルに並んだ。僕は考えた。この中で本質的なものは誰だ、と。やおら、「水」が入ったグラスを取ると、テーブルの一番左に置いた。さて、次は間違いなく「白湯」だ。そして、本質的なものはこの2つしかないことに気づいた。「アップルジュース」や「フレッシュミルク」が本質的ではない、と言っているのではない。が、本質からは遠く、彼岸にあるものたちだと言えるだろう。だって、アップルジュースがなくたって、フレッシュミルクがなくたって、とりあえず人は困りはしない。
「じゃあ、これは本質と対の側にあるものだ」とまた例のように独り言を良いながら、さて、「ジュース」と「ミルク」はどちらがより本質から遠いのだろうか?と思いを巡らせた。そして、「アップルジュース」を3つ目のグラスとして並べ、「フレッシュミルク」の独特のフォルムをしたそう牛乳瓶を一番最後に置いた。
下手からの並びは以下の通りだ。
「新鮮な水(氷等で冷やさなくても適度に冷たくて美味しい。かすかな甘みが感じられる)」「白湯」「アップルジュース」「フレッシュミルク(牛乳瓶)」
そして、少し考えた後、「水」と「白湯」をお互いに寄せ、「アップルジュース」と「フレッシュミルク」をお互いに寄せてみた。するとどうだ。二つのグループのように分かれてしまって、「白湯」と「アップルジュース」の間には”埋めがたい溝”のような空気感が立ち上がっていたのである。
「うーん、こういうことなのか」と僕は唸った。
その瞬間、コトは起こった。
僕は自分の生理に従って、本能に従って、直感に従って、「白湯」を飲んでいた。そして、そのちょと適度に温められた水が、体の全身の細胞に染み渡って行く快感にもだえた。
「あーふっ….」
そこには、ああ、これで助かったと、命を救われたと感じたであろう、戦国時代の戦で傷ついた一人のサムライの気持ちとつながったような感覚があった。僕は疲労していた、覚醒し、自分の意識から全くアンコントーラブルとなって勝手に革新していく精神に戸惑っていたからだ。
「これは何だ….何なんだ….」
そして分かった。僕が「白湯」を飲んだ理由が。
それは「必要」だったからだ。とても必要だった。憔悴している僕の肉体性にとって、今必要なのは、水ではなかった、一杯の白湯だったのだ。
本質は必要に再定義される、のだ。
朝食中、僕は5回ほど白湯を取りに行き、最後にアップルジュースを先に、フレッシュミルクを最後に飲んだ。牛乳瓶である。紙の蓋を開ける。いやいや懐かしい。
そして、「ごちそうさまでした」とテーブルを離れた時、「新鮮な水」はひと口も飲まれず、ちょうどいい感じに曇天の、つまりディフーズされた光線が差し込むテーブルの上で、ひとりぼっちのように見えた。
「ごめんな、おまえ」
僕はそういって、ホテルの部屋へと戻って行ったのだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿